公知技術は必ずしも自明事項でない 平成27(行ケ)10245

平成28年8月24日判決言渡
平成27年(行ケ)第10245号 審決取消請求事件

1.事件の概要

被告は、臀部拭き取り装置の発明について特許出願し、特許第4641313号として設定登録を受けました。
発明の目的は、高齢者等が、洗浄後も便座に座ったままの状態で水滴や汚れの拭き取り作業を行うことができる臀部拭き取り装置及びそれを用いた温水洗浄便器を提供することにあります(明細書【0014】)。
明細書の従来技術の欄には、便座本体を傾斜させることによって容易に立ち上がるようにする装置が特許文献3~7として挙げられています(【0006】)。そして、これらの従来装置はいずれも拭き取り作業が容易でなく、便座に座ったままで拭き取ることができれば、従来に比べて作業が楽になる旨、記載されています(【0009】-【0013】)。
また、発明の効果として、便座が上昇された際に生じる便器と便座との間隙を介して、拭き取りアームに取り付けられたトイレットペーパーを露出させることができ、便座に座ったままの状態で、拭き取り作業を行うことが可能となる旨、記載されています(【0042】。
被告は、出願後に請求項15以下を新設するなどの特許請求の範囲の補正を下記の通り2度行いました。

[出願当初の請求項1](符号は本稿にて挿入しました。)

トイレットペーパー13で臀部を拭く臀部拭き取り装置であって、
便座を昇降させる便座昇降部4と
前記トイレットペーパーを取り付けるための拭き取りアーム55と
前記便座昇降部によって前記便座が上昇された際に生じる便器と前記便座との間隙を介して、前記便座の排便用開口から前記拭き取りアームに取り付けられた前記トイレットペーパーが露出するように、前記拭き取りアームを駆動させる拭き取りアーム駆動部5と
を備えることを特徴とする、臀部拭き取り装置。

便器

[一回目補正時の請求項15]

トイレットペーパー13で臀部を拭く臀部拭き取り装置であって,
前記トイレットペーパーを取り付けるための拭き取りアーム55と
前記臀部を拭き取る位置まで前記拭き取りアームを移動させる拭き取りアーム駆動部5と
を備えることを特徴とする,臀部拭き取り装置。

[二回目補正時の請求項15(本件発明15)]

トイレットペーパー13で臀部を拭く臀部拭き取り装置であって,
前記トイレットペーパーを取り付けるための拭き取りアーム55と
前記臀部を拭き取る位置まで前記拭き取りアームを移動させる拭き取りアーム駆動部5とを備え,
前記拭き取りアーム駆動部は,便器と便座との間隙を介して,前記拭き取りアームを移動させることを特徴とする,臀部拭き取り装置。

これに対して、原告は、便座昇降部を必須としない請求項15を追加する一回目の補正が新規事項の追加(特許法17条の2第3項)に該当するなどとして無効審判請求したところ、特許庁は「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をしました。
本件は、無効審判請求を不成立とした審決に対する取消訴訟です。争点は,複数ありますが、そのうち新規事項追加の有無に関する部分で、裁判所が原告の主張を一部不採用としたうえで、審決を取り消す判決している点が興味深いので、本稿ではこの部分のみ取り上げます。

2.審決の理由(抜粋)

 ②便座昇降部は,便座本体を傾斜させることによって,人が容易に立ち上がれるようにするためのものであること(【0006】)に照らせば,②のような人が容易に立ち上がれるようにするための便座昇降部は,上記①の本件発明の目的を達成するために必ずしも必要なものではなく,拭き取りアームを移動させるための間隙が便器と便座との間に形成されさえすればよいことは,当業者にとって自明の事項である。また,・・・昇降部によらずに便器と便座との間に間隙を設けることは,本件特許出願前に公知であった。
そうすると,本件発明15の,便座昇降部により便座が上昇された際に生じるものに限定されない「拭き取りアームを移動させる」「便器と便座との間隙」は,当初明細書等に実質的に記載されていたものといえるから,本件発明15,本件発明23,本件発明25ないし本件発明29,本件発明30(15)に係る特許は,特許法17条の2第3項に規定する要件を満たしていない補正をした特許出願に対してされたものとすることはできない。

3.原告の主張(抜粋)

 その上,便座昇降部によらずに便器と便座との間に間隙を設けても,便座本体は上昇も傾斜もされないため,人が立ち上がることが容易にはなるという本件発明の目的を達成できない。
そうであれば,当初明細書等に接した当業者は,高齢者等が特段容易に立ち上がることができない構成である,便座昇降部を備えない装置が当初明細書等に記載されているとは理解しない。

4.裁判所の判断(抜粋)

裁判所は、発明の目的・効果などを前記の通り認定したうえで、

上記認定によれば,補正前発明は,便座に座ったままの状態で水滴や汚れの拭き取り作業を十分にできることを目的としており,その便座昇降装置は,便座と便器との間に間隙を設けて,そこから拭き取りアームを露出させるという技術的意義を有するものと認められるが,当該装置を用いて,使用者が便器から容易に立ち上がれることを目的としているものとは解されない。
これに対して,原告は,便座昇降装置は,使用者が容易に立ち上げれるようにするとの本件発明の目的を達成するための構成であり,その旨の記載が当初明細書等にあると主張する。しかしながら,便座本体を傾斜させて便器から容易に立ち上がれるようにする装置の問題点を指摘する当初明細書等の記載(【0011】)は,補正前発明がその点も課題として採り入れたとする趣旨ではなく,単に,従来技術の一例を挙げているにすぎないと解される。また,補正前発明の一実施形態が使用者の立ち上がりを補助しているとする当初明細書等の記載(【0085】)は,便座昇降装置を採り入れた実施態様では,そのような効果も副次的に生じることを記載するにすぎないと解される。したがって,原告の上記主張は,採用することができない。

として原告の主張を退けています。
それでも裁判所は、審決の判断に対しては、

当初明細書等の記載には,前記1(1)のとおり,便器と便座との間隙を形成する手段としては便座昇降装置が記載されているが,他の手段は,何の記載も示唆もない。
すなわち,補正前発明は,便器と便座との間隙を形成する手段として,便座昇降装置のみをその技術的要素として特定するものである。
そうすると,便座と便器との間に間隙を設けるための手段として便座昇降装置以外の手段を導入することは,新たな技術的事項を追加することにほかならず,しかも,上記のとおり,その手段は当初明細書等には記載されていないのであるから,本件補正は,新規事項を追加するものと認められる。

と原告の主張を認めました。
一方、被告による、①便器と便座との間の間隙を形成する手段が自明な事項である、並びに②便座昇降装置以外の手段で便器と便座との間に間隙を設ける技術が公知であるから,便座昇降装置以外の手段で間隙を設けることは,当初明細書等に実質的に記載されている旨の、審決理由と同様の主張に対しては下記の通り退けています。

① 手段が自明な事項というには,その手段が明細書に記載されているに等しいと認められるものでなければならず,単に,他にも手段があり得るという程度では足りない。上記のとおり,当初明細書等には,便座昇降装置以外の手段については何らの記載も示唆もないのであり,他の手段が,当業者であれば一義的に導けるほど明らかであるとする根拠も見当たらない。
② 上記の自明な事項の解釈からいって,他に公知技術があるからといって当該公知技術が明細書に実質的に記載されていることになるものでないことは,明らかである。

5.当職のコメント

開示の代償として特許を付与する特許法の目的からして妥当な判決であると思量します。特許庁審査基準によれば、補正された事項が当初明細書等の記載から自明な事項である場合には、当初明細書に明示的な記載がなくても、補正が新規事項を追加するものでないとされていますが、補正された事項に係る技術自体が周知技術又は慣用技術であるということだけでは、当初明細書等の記載から自明な事項とはいえない、とも記載されています(審査基準第Ⅳ部第2章3.2)。従って、判決は審査基準に沿っており、むしろ特許庁が審査基準から逸脱しています。
審決は、明細書が従来技術として、容易に立ち上がるようにする装置を多数挙げていることから、その流れで本発明における便座昇降部も立ち上がりを補助するためのもののように認定しており、論理が飛躍しています。判決文によれば、この審決の論理に引きずられて原告も、立ち上がりを容易にすることが発明の目的であると主張しているように読めます。
従来技術として例示されている内容と発明の課題(目的)とを混同してはならないこと新規事項追加の有無は公知技術の有無と直結しないこと、及び訴訟においては審決の誤った論理に引きずられないように主張すべきことの教訓となる判決と思います。

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